1 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() blogランキング参加中!当時の学生生活に、少しでも興味を持てた方はクリックを! ▲
by wakodaigaku
| 2005-05-31 06:01
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by wakodaigaku
| 2005-05-26 06:07
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by wakodaigaku
| 2005-05-25 06:41
![]() 和光大学情報局が運営する掲示板「以心伝心」は、当初の目的どおり、利用されるようになってきた。 ![]() blogランキング参加中!クリックを! ![]() 和光大学は、学生がバリーケードストライキをしても、警察を導入する事は無かったが、警察がかってにやってくる(家宅捜査)をしにくる事はありました。この立看板は、1972年10月13日の早朝に行われた、相模原署の家宅捜査に対する、サークル連合の抗議文が書かれています。 ![]() この頃は、もう街頭闘争は下火になっていた。 ▲
by wakodaigaku
| 2005-05-18 18:21
現在の大学では考えられないだろうが、当時の大学、特に和光大学のキャンパスは24時間出入り自由だった。校舎はもちろん、守衛さんが鍵をかけるが、門の無いキャンパスは、いつでも、誰でも出入り自由。校舎も使用許可書を提出すればOKだった。もしかして、一部の校舎は鍵はかけられていなかったかもしれない。
そんな、環境をフルに生かして、立看「以心伝心」を運営するサークル「和光大学情報局」がオールナイトの「お祭り」を開催した。 ![]() blogランキング参加中!クリックを! ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by wakodaigaku
| 2005-05-15 09:40
![]() 彼とは、この年の夏、松本へ行きました。ファンタスティックな人です。 ジャニス・ジョブリンを教えてくれたのは、彼でした。その後、4人囃子のメンバーに参加したとか・・ ![]() キコリ事、槙田君。西荻窪でプラサート書店という本屋をしていたのが、私の知る最後の消息です。 ▲
by wakodaigaku
| 2005-05-12 02:03
![]() ![]() blogランキング参加中!クリックを! ![]() 作ったのは、キコリやイイナさんです。 テント村の前身です。 「以心伝心」と名づけた、何でも貼れる立看、今で言えばコミュニケーション・ボードを、その後「同棲テント村」等と女性週刊誌で取り上げられる事になる、コミューン志向のグループが作りました。 ▲
by wakodaigaku
| 2005-05-07 01:53
![]() 岩城教授が北大に転出した後、46H2のコアクラスの担任は、心理学の岸田秀教授に代わりました。岸田教授はその後、多くの本を出版し有名教授の一人になりました。 ![]() 公開講座「大学論」越生先生、この卒論の主査です。 この年、ボクは大学論を落としました。 ![]() blogランキング参加中!クリックを! ▲
by wakodaigaku
| 2005-05-04 07:36
![]() ボクは無事に2年になりました。でも4月の終わりにカヨちゃんにふられてしまい、学校で彼女にあうと悲しくなるので、1学期は、ほとんど学校に行けませんでした。よく慶応の日吉に友人をたずねて、授業などを受けに行きました。慶応大学の工学部には、ボクのやった数学のテストが今でも残っているかもしれません。 この年のヒット曲旅の宿(吉田たくろう)、ひとりじゃないの(天池真理) ![]() blogランキング参加中!クリックを! ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() blogランキング参加中!クリックを! ▲
by wakodaigaku
| 2005-05-03 03:55
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About
![]() 人気blogランキング参加中クリックを! メールはこちらへ・・・! プロローグ それは、ボクたちだって、革命が起きると思っていたわけじゃない。 でも、何かが起こりそうな、そして変わりそうな気配だけは、感じられた時代だった。そして、社会の矛盾だけは、するどく感じられた。 ボクが、高校1年の時、 新宿フォークゲリラの事件が起きた、銀座を歩けば、ベトナム戦争からの休暇のアメリカ兵がたくさんいた。そして、信じられない事に、東京のまんなか、、王子にアメリカ軍の野戦病院があったんだ。 ボクが中学生の頃から、ニュースはベトナム戦争の事ばかりだった。そして、親が汗水たらして働いたお金で子供達を入学させた大学で、その貴重なお金をちょろまかして使っていた許せない事件が発覚した。それが、日大闘争だった。東大でも、別の理由から闘争が起こった。 世界的にも、同じだった。たしか’67年には、フランスの5月革命がおきた。アメリカでは、ハーバードもコロンビアもバリケードストライキをやっていた。 中心になっていたのは、ボクたちより少し先輩の、今「団塊の世代」と呼ばれている人達だった。 ボクらの世代は、何となく「遅れて来た青年」という感じだった。 そんな、'71年、梅根学長の大学論に感動し、ボクは和光大学の6期生として入学した。 大学は期待を裏切らなかった。梅根学長は「先生と学生がいれば授業はなりたつ、場所は教室でなくても授業はできる。」という考えの下、バリスト中でも授業は続けられた、 機動隊の導入なんかは、一度もなかった。もっとも、向こうからかってに、やってきた事はあったけど・・・ そんな和光大学。ボクは毎日NIKON Fに28mmを付け、写真を写しまくった。 ’73年にベトナム戦争が終わり、3年の時には1年間、写真家長友健二氏のアシスタントになった。 '75年卒業、第一次石油ショックの真っ最中で、和光大学から、まともな就職先は無かった。ボクはカメラマンを目指していたから、親のスネをもう少し長く囓る事にし、芸術学科の専攻科に進学、同時に朝日カルチャーセンターにあった「広告写真の講座」に通った。途中で広告写真の講座の講師、写真家杉木直也氏のアシスタントになる事ができたので、専攻科は中退し、写真の道に本格的にすすんだ。 ボクの写真の原点は「和光大学戦中悲話」のなかにある。 以前の記事
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